石田不空の作品とは
書道家 石田不空の作品
嬉しいことや悲しいこと、出会いや別れなど、私たちは誰もが日々様々な出来事に遭遇します。
そんな中で心に強く響いた言葉や、ふと目にし、大きく心を揺さぶられた言葉たち。
・・・それら時期を得、出会うべくして出会った言葉への感動が、私の心を作品作りに強く向かわせます。
こうして見いだされた言葉は、しかし今しばらく時間の試練に耐えねばなりません。
なぜなら私は安易に作品作りに取り組むことを厳に慎んでいるからです。
じっくり資料をあたり、日々様々な角度からその言葉の意味を考えていく中で次第に理解を深め、作品のイメージを練り上げていきます。
こうしてついに筆を執ったものだけが、まずは「石田不空の作品」となる資格を得ます。
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ところで私の作品は、縁起の良い言葉がいかにも楽しそうに書かれた物ばかりではありません。悲しい言葉が今にもちぎれてしまいそうな線で寂しげに書かれた物もあるでしょう。
読みにくい漢詩や和歌の作品は少ない代わりに、中には強いメッセージ性のあるものなど、つぶさに観察していただくと、普通の書家とは一味違う題材が、そしてその選ばれた言葉と書きぶりからは私自身の思想や哲学を感じていただけるはずです。
「書を通じた啓蒙」・・・大それた言い方かもしれませんが、それは私の、「書道家 石田不空」としての使命であると思っているからです。
私の作品に対する評価として、多くの方から
「作品が多様だ」
「一人で書いたとは思えない」との声をいただきます。
確かに来場者からしてみれば漢詩ばかり、仮名ばかり並ぶ書道展ほど退屈なものはないでしょう。
しかし私に言わせれば、日々出会う喜怒哀楽をそれぞれに表現すれば作品は「自ずと多種多様に」展開できるはずで、作品が単一になるということは、書と日々の生活に断絶があるか、勉強不足であるかのいずれかに相違ありません。
つまり、不特定多数の来場者に満足頂くためには、そしてプロの書道家を名乗るからには、様々な作品を作る上でも、各種揮毫依頼の様々な要求に適切に応えるためにも、あらゆる書風を書き分ける力量を備えていることは当然であると考えます。
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さて、作品作りは決して生易しいものではありません。もちろんお手本などどこにもありません。
その時の心情や伝えたいメッセージを100%映し出し、見る人にもその想いが理解してもらえることが肝心です。
なおかつ洗練された高い芸術性と、先進的な書表現への挑戦も盛り込みます。
では文字をどのように書くか。
縦書きか横書きか、紙の形や大きさはそのまま筆の大きさにも影響します。
真っ白な紙だけでなく、さまざまな色や模様の入った紙があり、にじみの程度も異なります。
筆には羊毛、イタチ、馬、狸、鳥・・・といった多様な毛質があり、毛の長さも太さも異なります。
墨には大別して松煙墨と油煙墨があり、作品のイメージに応じた選択と、場合によっては最適な比率で混合して使用します。
時間をかけて墨を磨り、最適な濃さと色調に調節します。
これらの組み合わせはまさに無限に考えられるため、経験と勘を駆使し、書いていく中で徐々に絞り込んでいくのです。
私の作品作りは主として早朝です。
まず墨を磨り、数枚~十数枚ほど書きます(創作においては一度にたくさん書いても意味はありません。反故が大量にできるだけです)。
そして翌朝、それらの作品を壁に貼り付け、じっくり時間をかけて1点1点吟味し、次の課題を探り、再び硯に向かいます。
こうして毎日少しずつ、本当に少しずつですが作品が成長していく過程で、ある日、筆線に飛躍への「かすかなヒント」を発見します。
これはきっと「神様からのご褒美」に違いないと私は思います。
苦しみながらも諦めず書き続ける未熟な者へ、見るに見かねた神様がそっと手をそえてくれたのです。
さらに書き込み、吟味し考える日々が繰り返されていくうちに、まるで生活全般が、更には自分の体、その細胞までもがその1点を作り上げるために最適化していくのを感じるから不思議です。
こうして数ヶ月に及ぶ長い戦いの末、満足のいくたった1つの作品が生まれます。
しかしその背後には300~500枚、作品によっては数千枚の反故があることを忘れないでください。
そして苦しい作品作りに取り組んだ濃密で幸せな時間の長さの分だけ、結果として確実に私の寿命は縮まっているのです。
私の作品は、そのどれもが私の命の砕片なのです。
長文をお読みいただき、ありがとうございました。
私の作品、とりわけ大作品は必ずしも安価とは言えません。
むしろ高価です。
しかし、以上の文章をお読みいただき、ただ1点の作品が生まれるまでの過程を知っていただけたならば、きっとご納得いただけるものと信じております。
嬉しいことに、私の作品をお買い上げくださった方は、決まって
「決して高くない、むしろ安いぐらいだ。」
とおっしゃいます。