墨を磨ること
私は日常的に「墨を手で磨って」作品を書いています。
念のため申し上げておきますが、ここで言う「墨」とは「昔ながらの固形墨」のことで、ボトルに入った墨液のことではありません。
ボトルに入った墨液が主流となり、墨を磨ったことがないという方のほうが多数派であろうことを考えれば、今もって「墨を手で磨る」人がいること自体に驚かれる方もいるかもしれません。
しかし書道家と名乗る以上、私は「墨を手で磨って」書くのが当然だと思います。というのも、まず墨を選び、その墨を手で磨りつつこれから書く作品について想いをめぐらせ、しかる後に自分の思い描く濃さや墨色に調節し、いよいよ書く。ここまでの一連の行為を「書道」と呼ぶのであって、どれか一つ欠ければ、それはもはや書道とは呼べない、と私は思っているからです。
ところで墨を手で磨ることの難しさは(これはむしろ面白さ、醍醐味とも言えるのですが)、まず第一に、その日の温度や湿度などに大きく影響を受ける、ということです。例えば気温が約20℃を下回る辺りから墨は急激に粘度を増し、使用に適さなくなってしまいます。これは墨の材料である膠(にかわ)の性質によるもので、特に冬場は硯をあらかじめ温めたり、お湯を用いて墨を磨るなどの工夫が要ります。また、昨日と同じ濃さにしたいと思っても、完全に再現することは厳密に言って不可能です。そのため、同じ作品に取り組んでいても、昨日と今日書いたものでは墨の濃さや滲み加減などに微妙な違いが生じます。
でもこれらの、いわば「マイナス因子」に起因する様々な失敗や工夫が、地道な作品作りの過程で大きな発見や飛躍につながるのです。ですから、その作品をより良いものにするために、この「マイナス」は、むしろどうしても無くてはならない大事な要素なのです。
さて、墨の色といえば誰もが「黒」をイメージされるでしょう。濃く磨ればもちろん黒色ですが、よく観察すると、特に淡い状態では赤みがかって見えるものや、青みがかって見える種類もあります。これは墨の原料である煤(すす)の種類や、粒子の大きさが関係しています。
そこで質問ですが、もしあなたが「森」という文字を書こうとしたら、どの墨を使いますか?
私なら、まずこう尋ねるでしょう。
「その森は、たとえば夏の森ですか?それとも冬の森ですか?」と。
もし夏の森なら、熱気と成長のエネルギーを感じるよう、羊毛などの柔らかい毛質の筆に赤みを帯びた油煙墨をたっぷりつけ、紙いっぱいに滲みを生かして書くでしょう。冬の森だと言うのなら、冷たさと静寂を感じるよう青みのある松煙墨と硬めの毛質の筆を使い、きりっとした細い線で、かすれも生かして書くでしょう。その表現の多彩さこそ墨の持つ力なのです。
一方で、ボトルの墨液だって使い方を工夫すればそれに近いことはできます。しかし私にとってはその行為自体が自分を欺き、人を欺いているように感じてしまうのですから仕方ありません。芸術家にとって、「自分を欺く」ことは「致命的」なのです。
こうして、たかだか「森」という一文字を書くだけなのに季節を聞いてイメージを頭に描き、墨を選び、次いで筆や紙を選び、文字の大きさ、太さ、余白、運筆のスピードやタッチ、果ては落款の位置まで考えて揮毫するのが書道なのです(どこかから「面倒くせー」という声が聞こえてきそうですね)。
いかがですか?「手で墨を磨ること」の大切さとその意義が、そして安易に墨液を使うことが「人間の生き方としての書」の本質からどれだけ離れているのか、お分かりいただけたと思います。
さて、様々な書道団体が開催する大規模な公募展に目を転じると、そこで皆さんが目にする大きな作品は、そのほとんどがボトルに入った墨液で書かれています。大きな作品でなければ目立たないし賞も取れないから、という理由で大きな作品を出品するのですが、大きいから余計に手で墨を磨ってなんかいられません。あるいはこう言い訳をする人もいるでしょう。
「最近の墨液の品質は格段に良くなった」と。
私も以前公募展に必死になって出品していた頃は、墨液しか使っていませんでしたし、恥ずかしながらそれに何の疑問も持ちませんでした。しかし今、その頃の作品から感じられるのは下品なほどに黒いその色と、人を押しのけてでも賞を狙っていた醜い心です。
一切の書道団体、それはすなわち数の論理やお金で賞が手に入るような世界との関係を絶った時からずっと、私の手には墨液のボトルではなく、固形の墨が握られています。心持ちは朗らかに澄みわたり、墨色は深みをたたえて鮮やかです。